「なぜAIを活用するのか?」今こそ明確化する、その最終的な目的

ハイデガー、マルクス、ニーチェから学ぶ哲学的考察

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人口減少が進んだ後の国と地方のあり方に関する、先日の総務大臣の発言が、物議を醸しています。現総務大臣に関しては個人的に思うところが多々あるものの、今回の発言に関しては全面的に支持したいと考えます。「人口が急激に減少する状況では今のシステムを前提としない自治のあり方を考えていくことが必要だ」「次の世代が生き残るために今から考えていかなければ間に合わない」といった大臣の主張に強く賛同するとともに、こうした発言が政治家の口からようやく出るようになったことに、少なからず感心しました。

▶︎ 参考リンク:NHKニュース

以前のブログ(参照リンク)でも書いた通り、変化の激しい時代においては、起こり得る未来を正しく想像し、事後対応ではなく事前対応を行うことが何よりも重要です。そしてそれを実現するために必要なのが「経路依存性からの脱却」です。

AIの進化に対する熱狂と懸念

ところで特に昨年から、世間はAIの進化に関する話題で持ちきりです。毎日のように新たな商品やサービスが発表され、ほんの数ヶ月の間にコモディティ化していく。そんな時代に突入しています。この状況における「1年」は、平成時代の「10年」に匹敵するスピード感を持っていると言えるでしょう(あくまで体感ですが)。

日々登場する新技術に対し、人々は一種の熱狂状態にあるように見えます。この熱狂を意図的に生み出すことは、新たな技術や制度の推進において「勢い」を生む観点から重要でしょう。事実、マイナンバー制度やキャッシュレス決済、インターネット行政サービスの普及が思惑通りに進まなかった背景には、「勢い」の欠如がありました。一方で、スマートフォンやSNSのように「勢い」を伴って広がった技術は、市場を一変させることができています。AIの活用推進もまた、後者となるべきでしょう。

しかし、巷の報道、出版される書籍、各種セミナー、数多く存在するそれらのどれもが、AIの技術論や商品紹介に焦点を当てたものばかりです。この点に私は、強い違和感と懸念を抱くようになってきました。

ただ、こうした懸念を共有する人は既に少なからず存在しているようです。例えば、先日登壇された鈴廣かまぼこ(株式会社鈴廣蒲鉾本店HPリンク)の鈴木社長は、AIの活用を肯定的に捉えつつも(同社は80年代にパソコンを導入するなど、DX推進に積極的な企業として有名です)、「このままだと人間がどんどんバカになっていくのではないか?」と、極めて本質的な問いを投げかけていました。社長は、一連の業務をAIに任せることで生じるブラックボックス化を特に危惧されており、AIの導入と併せて「業務を理解している人間」の育成にも同時に注力していくとのことです。

また、先日読み終えた『AIに潰されない「頭のいい子」の育て方』の著者である富永雄輔氏は、昨今の急激な変化により「今の自分を良しとしている成功者ほど、対処法を誤り、痛手を負う確率が高い」と指摘しています。彼は「備えない人は息絶え、備えた人は生き残る」と、強烈な言葉を投げかけています。

最終的な目的を明確化することの重要性

つまり、AIが指数関数的に進化を遂げる今こそ、私たちは「その先」を正しく描いておく必要があるのです。その「先」とは、「AI時代の人間の在り方」、すなわち最終的な目的の明確化に他なりません。

最終的な目的を明確化せずに(「勢い」や目先の目的だけで)進んでしまった結果、悲劇的な結末を迎えた事例は歴史上いくつも存在します。例えば、以下のようなものです。

  • リーマン・ショック(2008年)
    金融機関が「儲け続けること」だけを目的とし、リスク管理を軽視した結果、サブプライムローンの膨張が続き、最終的にリーマン・ブラザーズの破綻を引き金に世界的な金融危機が発生しました。
  • ベトナム戦争(1955年~1975年)
    「共産主義の拡大阻止」という漠然とした目的のもとでアメリカが戦争に介入しましたが、具体的な勝利条件や出口戦略が不明確でした。結果、戦争は泥沼化し、最終的に約300万人のベトナム人と約58,000人のアメリカ兵が命を落としました。
  • メタバース事業の迷走(2020年代)
    Facebook(現Meta)がメタバースを次世代インターネットの中心に据えようと巨額の投資を行いましたが、明確な目的や市場のニーズを捉えないまま事業を進めた結果、普及には至らず、大規模な事業の見直しを余儀なくされました。

AIを活用する目的には、業務の効率化や産業のイノベーション等があるのかと思います。しかし、その「最終的な目的」を明確化せずに進んでしまうと、これら同様の悲劇的な結末が待ち受ける可能性があるのではないでしょうか。現時点で私が想像する、AI時代の「悲劇的な結末」には、以下のようなものがあります。

  • 人間がAIに使われる世界(人間の「機械の補助」化)
    「考えなくてもAIがやってくれる」ようになった結果として、人間の創造性や判断力は急速に衰退して行きます。技術の進歩によって、本来AIが人間を補助するはずが、逆に人間がAIの補助に回るようになります。すべての業務プロセスはAIによって最適化され、人間はAIが決めたタスク(微修正等)をただこなすだけの存在になります。人間は自分の意思を持つことすら不要になり、最終的にはAIなしでは生きられない社会になります。
  • 人間の選択権や自由意志が奪われる世界(AIによる「社会の自動運転」化)
    AIが個人の趣味・嗜好・遺伝情報・行動履歴を分析し、「最適な職業」「最適なパートナー」「最適な生活スタイル」を提案してきます。どこで働くか、誰と付き合うか、何を食べるかすらAIに最適化されることで、人間が「生きること」の意味は失われていきます。最初は一見便利に思えるため、面白がって使ってしまうでしょう。そのうちにAIの推薦に従わない選択をすると「非合理的」とみなされ、社会的に不利になるようになります(信用スコアの低下など)。
  • 「無価値な人間」の誕生(多くの人間の「無用者階級」化)
    AIがすべての「生産的な仕事」を担うようになり、人間には「人間にしかできない仕事」(高度な専門職)が求められるようになります。しかし、多くの人が高度な専門職になれるわけではなく、結果として大多数が「無用者階級」化し(経済価値のない人間とみなされ)、社会的な居場所を失ってしまいます。ベーシックインカムなどで最低限の生活は保証されたとしても、この「やることがない」状態が、精神的な荒廃に確実につながります。

人口減少が加速度的に進む日本において、あらゆる場面でのAI活用は不可避の「手段」となることは間違いありません。そして、技術が進歩すること自体は決して悪ではありません。問題は、その技術を「どのような目的のために使うのか」を十分に考えずに推進してしまうことです。

私たちは誰も、悲劇的な結末など望んではいません。なので、AGIやASIの登場が現実味を増している今こそ、「AIを活用することで、最終的にどのような未来を実現したいのか?」 すなわち、「AI時代の人間の在るべき姿とは何か?」 を深く考え、明確にしておく必要があるのです。

三冊の歴史的哲学書を参考に考える「AI時代の人間の在り方」

前々回のブログ(参照リンク)では、ジョルジュ・バタイユとハンナ・アーレントという二人の哲学者の考察からそのヒントを探りましたが、もちろん、参考とすべき哲学書は他にも数多くあります。今回は、より基本的な三冊の哲学書を手がかりに、偉大な先人たちが「人間の在り方」をどのように捉えていたのかを考察していきたいと思います。

1. マルティン・ハイデガー『存在と時間(原題:"Sein und Zeit")』(1927年)

■本と著者について

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの代表作です。本書では「人間とは何か?」という根本的な問いに取り組み、特に「存在(Sein)」について考察しています。ハイデガーは人間(彼の言う「現存在(Dasein)」)が世界をどのように経験し、生きるべきかを問いかけるのです。

彼は、人間の生き方には「非本来的(uneigentlich)」なものと「本来的(eigentlich)」なものがあると考え、分類しました。

  • 非本来的な生
    世間に流される生き方。多くの人は日常的に「世間(Das Man)」の価値観に従い、無自覚に生きています。例えば、「みんながやっているから」「社会がそうだから」という理由で生き方を決めるのがこれに該当します。
  • 本来的な生
    自己の選択に基づく生き方。人間は「死への存在(Sein-zum-Tode)」であることを自覚し、「自分の人生をどう生きるか」を主体的に選択すべきだとハイデガーは主張しています。※彼は、死を意識することで初めて、人は本当の意味で「自分の人生を生きる」ことができると考えています。

■AI時代のハイデガー的「本来的な生」とは?

ハイデガーの思想は、AIによって仕事や生き方が変わる時代において、「流される生き方」ではなく、「主体的に選び取る生き方」を考える上で重要な示唆を与えてくれます。

AIが労働を担う時代に、「AIが仕事を奪うなら、仕方なく新しい職を探す」といった態度は「非本来的」と言えます。対して、「AIが何をしてくれるか」ではなく、「自分が何をするか」を主体的に選ぶことが、「本来的な生」の実践となります。ただ楽をするのではなく、「自分がどのような存在でありたいか」を考えることこそ、今この時代に求められる姿勢でしょう。

そして、「在りたい存在」としては、例えば次のようなものが考えられます。

  • 自分の創造性を発揮する
  • 新しい価値を生み出す
  • より深く世界を理解する

2. カール・マルクス『経済学・哲学草稿(原題:"Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844")』(1844年)

■本と著者について

ドイツ(プロイセン王国)の哲学者、経済学者、革命家であるカール・マルクスによる、初期の重要論文です。本書では、「労働疎外(Entfremdung)」という概念を詳論しています。

労働疎外とは、労働者が自分の労働や生産物から切り離され、人間としての本質を失うことを指します。例えば、労働者は工場で車を作っても、その車を自由に使うことはできません。作った商品は資本家の所有物となり、労働者の手を離れます(=労働者は自分の生産物をコントロールできない)。

本来、労働は人間の創造的な活動であるべきですが、資本主義のもとでは賃金を得るための手段に変質し、労働そのものが苦痛になってしまいます。さらに分業化が進むことで、 他人とのつながりも希薄になり、最終的に労働者は、自分の仕事に意味を見出せず、機械のように働くことになる(=「自己疎外」が深まる)というのがマルクスの主張です。

■AI時代における「労働疎外」は回避できるか?

マルクスの「労働疎外」の概念は、AI時代においても極めて重要な意味を持ちます。

AIが労働を代替することで、人間はより創造的な仕事に集中できるようになるのか?それとも、AIに管理されることで「労働の自由」がさらに奪われるのか?AIが「仕事を奪う」ならまだしも、人間が「機械の補助」になってしまえば、「自己疎外」は更に進むことになるでしょう。

マルクスは「労働からの解放」を最終的な目標としましたが(そして彼の思想は共産主義へと結びつきます)、果たしてAIによる労働の自動化は、人間を自由にするのか、それとも新たな形の支配を生むのか?AIの進化を楽観的に捉えるだけでなく、より深い考察が必要になってくるでしょう。

3. フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき(原題:"Also sprach Zarathustra")』(1883-1885)

■本と著者について

ドイツ(プロイセン王国)の哲学者、思想家、古典文献学者、フリードリヒ・ニーチェによる後期の代表作です。

本書は、主人公ツァラトゥストラ(ゾロアスターをモデルにした哲学者)が、人々に「超人(Übermensch)」の理想を説く寓話的な作品で、哲学書でありながら文学作品としての評価も高い一冊です。本書では「神は死んだ」「ニヒリズムの克服」「超人の創造」といった概念が展開されています。

ニーチェは、従来の「善悪」や「道徳」を疑い、新しい価値を自分自身で創造することを強調しています(「価値創造の哲学」)。主な論点は次の3つです。

  1. 「ルサンチマン(怨恨)」を超える
    キリスト教や道徳は、弱者が「強者を否定する」ことで生まれた、とニーチェは批判しています。例えば、「金持ちは悪い」「努力しない人はダメ」といった道徳観は、ある種の「復讐心(ルサンチマン)」から生まれています。価値創造の哲学では、こうした既存の価値に縛られず、自らの生き方を主体的に決めることが重要となります。
  2. 「力への意志(Wille zur Macht)」
    人間の本質は「力を求める意志」にある、としています。ここでいう「力」とは、他人を支配することではなく、自分自身を高め、創造する力のことです。
  3. 価値は「生の肯定」から生まれる
    ニーチェは「生の肯定(Ja-sagen)」を重視し、「人生を繰り返し生きてもよい」と思えるような生き方をするべきだと考えています(永劫回帰の思想)。

そしてニーチェは、人間が進化の過程で目指すべき存在として「超人(Übermensch)」を提唱しています。

  • 「神は死んだ」
    伝統的な道徳(キリスト教的価値観)が崩壊し、その後の「ニヒリズム(無価値観)」を乗り越え、新たな価値が必要になった。
  • 「超人」とは何か?
    超人とは、既存の価値に従うのではなく、新しい価値を自ら創造する存在
    ・群衆に流されない(世間の価値観を超え、自らの意志で生きる)
    ・「運命愛(Amor fati)」(あらゆる苦難を肯定し、人生を引き受ける)

■AI時代におけるニーチェ的な「価値創造」とは?

AIが労働や判断を代替する時代に、人間は「何のために生きるのか?」「何をしたら生きる意味があるのか?」という根本的な問いに直面しています。

ニーチェの思想が示すのは、「与えられた価値(仕事・社会のルール)」に従うのではなく、「自ら新たな価値を生み出す」ことの重要性です。「人間の在り方」は、人間自身の創造力にかかっているのです。例えば、AIによる効率化が進む中で、人間の役割は「無駄」「遊び」「芸術」「新しい哲学」を生み出すことになるのかもしれません。

つまり、AI時代における「超人」とは、AIに頼らずとも、自分で価値を創造できる人間のことを指すものと考えます。

AIによって最終的に実現したい未来

ハイデガーの「本来的な生」、マルクスの「労働の意味」、ニーチェの「価値創造」を踏まえると、AIの技術論のみに踊らされるのではなく、「AIと共に何を創るのか」「AI時代の人間はどう生きるのか」を主体的に考えることこそが、今我々に求められているのだということが良くわかりました。

「AIが何をしてくれるか」ではなく、「我々はAIによって最終的に何を実現したいのか?」この問いに答えを出さないまま技術を推し進めることは、人間にとって最大のリスクとなり得るのです。

では、どのような未来を選ぶべきなのか?次回は、サルトル、ドゥルーズ&ガタリ、スティグレールといった、比較的最近の哲学者による著書から考察してみたいと思います。

BBDF 藤本