前回(参照リンク)からの続きです。
より現実的に「人間の在り方」を考察するため、今回は主にAIの存在を前提としている比較的最近の哲学書を参考にしてみたいと思います。
4. ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(原題:ההיסטוריה של המחר/Homo Deus: A Brief History of Tomorrow)』(2015年)
■本と著者について
『サピエンス全史』で世界的に注目を集めたイスラエルの哲学者・歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが、人類が今後どのように進化し、未来社会がどのように変わるかについて論じた一冊です。本書では、AI・バイオテクノロジー・ビッグデータにより、人類がこれまでとはまったく異なる存在になる可能性を指摘しています。
ハラリは、新しい時代において倫理や価値観が大きく転換すると論じています。
- 自由意志の終焉
従来、人間は「自由意志」を持ち、自己決定する存在とされてきました。しかし、AIとデータ技術が発展すると、人間の選択は予測・操作されるようになります。例えば「あなたはこの商品を買いたいはず」「この職業が向いている」といった決定を、AIが下す時代が訪れます(既にその兆候はあります)。これは、ハイデガーが言う「非本来的な生」的状態であり、「自由意志とは何か?」を根本から問い直す必要が出てきます。 - ヒューマニズムからデータ至上主義へ
近代社会は「人間の幸福」や「個人の自由」を最優先するヒューマニズムを基盤としてきました。しかし、AI時代には「最適な判断を下すのは人間ではなくデータである」というデータ至上主義が支配的になります。例えば、企業における採用や医療診断もAIに完全依存するようになり、人間の価値は「自己決定」から「データへの適応」にシフトするとハラリは指摘しています。 - 仕事の消滅と「無用者階級」の誕生
前回のブログ(参照リンク)の冒頭でも触れましたが、AIが労働を代替するようになることで、仕事を持つ人と持たない人の格差が拡大すると予測しています。これまで仕事は単なる収入源ではなく「社会での役割」でもありました。ベーシックインカムなどの制度によって生活は保証されても、「働かない人間に価値はあるのか?」という倫理的な課題が浮上します。 - 不死や幸福の追求
遺伝子工学やバイオテクノロジー、ナノテクノロジーの進化により、人間の寿命が延びる可能性があります。また、「苦しみを排除し、常に幸福を感じる人間」を作る技術も発展するとハラリは述べています。「限りある命」「不完全な存在」という従来の人間観が変わり、新たな倫理的議論が必要になってきます。
その上でハラリは、「ホモ・デウス(神のような人間)」という概念を提示し、技術によって人類が「神に近づく」と述べています。
- 生命操作の能力
遺伝子編集やサイボーグ技術によって、「自分で自分をデザインする」時代が来ます。例えば、IQを高める、病気にならない、身体能力を強化するなど、人間が自分の特性を人工的に決定することが可能になります。これは、従来「神の領域」とされていたものを人間が手に入れることを意味します。 - 人間の意識と機械の融合
脳とコンピューターを接続する技術(ブレイン・マシン・インターフェース)により、人間の認知能力が大幅に拡張されます。これにより、「一人の人間が膨大な情報を即座に処理する」ことが可能になり、通常の人間を超えた存在へと進化します。 - 「死を克服する」可能性
ハラリは、「神と人間の違いの一つは、不死性にある」と指摘しています。現在研究されている、バイオテクノロジーやデジタル化により、老化を遅らせたり、意識をデジタル上に保存する技術が進化し、「死」が克服される可能性があります。そうすると、人間は生物学的な限界を超え、「神のような存在」に近づくことになります。
■AI時代における「ホモ・デウス」の課題
最も大きな問題は、すべての人が「ホモ・デウス」になれるのか?という点です。一部のエリート(=AIに使われるのではなく、AIを使う・AIを教える層)だけが仕事を持ち、且つ神のような力を得ることになった場合、新たな格差が生まれ、人間は「悲劇的な結末」を迎えるかもしれません。
「自由意志」が消滅し、すべての決定をAIが行う社会は本当に良いことなのでしょうか?AIやバイオテクノロジーの進化は、人類にとって幸福なのでしょうか?
ハラリは、「人間が神になる未来」は技術的には可能だが、倫理的・社会的な問題を引き起こす、と警告しています。それが、これからの人類の最大の課題になる、と主張しているのです。
AI時代において「人間の価値」や「生きる意味」が根本から変わる。このことを、私たちは受け止め、今こそ「在り方」を真剣に探るべきなのです。
5. ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か(原題:L'Existentialisme est un humanisme)』(1946年)
■本と著者について
フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルによる実存主義の代表的な著作です。彼はマルクス主義に影響を受けつつも、個人の自由を重視しました。
サルトルの実存主義の核心は、「実存(存在すること)は本質(あらかじめ決められた意味や目的)に先立つ」という考え方です。人間は生まれながらに決まった本質を持たず、自らの行動で意味を創造するという主張です。
- 人間は「何者か」が決まっていない
例えば、「ナイフ」は「切るために作られた」という本質(役割・目的)を持ちますが、人間には最初から決まった意味や目的はありません。神が定めた本質や、社会が決めた固定的な役割などない、とサルトルは言います。 - 人間は「自由」に投げ出されている
人間は「世界に投げ出された(投企:ハイデガーが提唱した概念です)」存在であり、自分の生き方を自分で決めなければなりません。医者になるか、芸術家になるかは自分次第です。AIにより労働が代替されることで「人間は何をするべきか?」が曖昧になる中で、「どう生きるか」はますます個人の選択に委ねられて行きます。 - 行動によって意味を創造する
「人間の本質」は、あらかじめ決められたものではなく、自分の行動によって作られる、という重要な観点です。「正直な人間になる」ためには、「正直な人間になりたい」と思うだけでは不十分で、実際に「正直な行動をする」ことで初めてその意味が生まれます。AI時代においても、「生きる意味」は与えられるものではなく、自ら選び、行動することで作るものだとサルトルは示唆します。
■AI時代におけるサルトル的実存主義
AIが労働を代替し、「人間の役割とは何か?」が不明確になりつつある中、サルトルの考えは重要な示唆を与えてくれます。
サルトルの実存主義によれば、答えは誰かが与えてくれるものではなく、個人が自由に選び、「行動する」ことでしか生まれません。AIの支配が進む時代に、「自らの意志で何をするか?」を考え、主体的に生きることが、実存主義的な「意味の創造」になるのです。
サルトル的に言えば、「AIにできることが増えたからといって、人間の意味が失われるわけではない。むしろ、意味は人間が自らの行動で作り出すものだから、むしろ今こそ自由に生きる時だ」という結論になるでしょう。
6. ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『千のプラトー(原題:Mille Plateaux)』(1980年)
■本と著者について
スピノザ、ニーチェ、ベルクソンなどの哲学を独自に発展させたフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと、フロイト=ラカン派の精神分析に批判的立場を取り、新しい思考モデルを提唱する、フランスの精神分析家・社会活動家、フェリックス・ガタリの共著です(「プラトー」とは、台地の意)。『アンチ・オイディプス(原題:Anti-Oedipus)』(1972年)に続く「資本主義と分裂症」シリーズの2作目として発表されました。非常に難解な一冊につき、理解しきれている訳ではない(いや、理解しきれていない自信があるw)のですが、自分なりに解釈してみます。
ドゥルーズ&ガタリは、固定化した考え方(「樹木的な思考」)を批判し、流動的で多様な関係(「リゾーム的思考」)を提唱しています。「国家」「資本主義」「アイデンティティ」といった一元的な枠組みを超えて、新しい生き方・社会のあり方を模索しています。伝統的な西洋哲学の「階層構造」「絶対的な中心」を拒否し、「分散的な思考」「多様性の受容」を重視しているのです。※リゾーム(Rhizome)とは根茎という意味です。
- 「樹木的な思考(ツリー構造)」(階層的な思考)
根があり、幹が伸び、枝分かれする、中央集権的な構造のことです。上下関係・因果関係が明確であり、「ひとつの答え」「ひとつの正しい道」を求める傾向があります。例えば、国家の官僚制や企業のヒエラルキーがこれに該当します。 - 「リゾーム的思考」(非階層的な思考)
ネットワーク状に広がり、どこからでもつながる構造を指します。例えば、インターネット、地下茎、菌類ネットワークなど。「中心」や「絶対的な基準」が存在せず、多様な接続が可能です。個々の要素が相互に結びつき、自由に変化します。オープンソースや分散型組織がこれに該当するのだと思います。
「リゾーム的思考」は、中央集権的な社会や労働観を超えることができます。
- 国家や企業のヒエラルキー構造を乗り越える
伝統的な社会や企業は「ツリー構造」で組織され、上から下への命令系統が強い(ピラミッド型)ですが、リゾーム的な社会は、自律的なネットワークが相互に影響を与え、中央の指令なしに機能します。つまり、分散型自立組織(DAO)や、フリーランスの水平的なコラボレーションやシェアリングエコノミー、仮想通貨やブロックチェーンなどが「リゾーム的」であると言えます。 - 「仕事=固定的な役割」という考え方を超える
伝統的な労働観では、職業・地位・労働時間が明確に決められ、安定したキャリアパスが前提となっていましたが、「リゾーム的思考」に則れば、単一の仕事に固執せず、多様なスキルを持ち、柔軟に働くことになります。正に現在の日本で求められている、副業・複業等「リゾーム的な労働」(固定の職業ではなく、複数のプロジェクトに関わる流動的な働き方)が増えていくのだと思います。デジタルノマドやオンラインコミュニティでの協働など、この流れは加速していくのではないでしょうか。 - 「アイデンティティの固定化」を超える
「会社員」「公務員」「専門家」といった固定的な自己定義が崩れ、状況に応じて役割を変える流動的な生き方が主流になります。これまでの「安定したキャリア」から、「多様なスキルを組み合わせた働き方」へとシフトします。一つの職業に縛られず、複数の仕事を並行するポートフォリオワーカーなどは、この典型でしょう。
■AI時代における「リゾーム的社会」の可能性
ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム」の概念は、AI時代の新しい社会構造と深く関係しています。AIとインターネットによって、仕事・政治・経済はさらに「リゾーム的」に変化して行くでしょうし、AIが労働を代替する中で、人間は複数プロジェクトに同時に関わるリゾーム的な働き方を取ることになるでしょう。また、AIが生産性を担うようになれば、人間は創造性や感情、直感を活かしたリゾーム的な生き方を模索することになるはずです。趣味と仕事を融合させたり、芸術・哲学・実験的ライフスタイルを取り入れる傾向は、更に高まるのではないでしょうか。
固定化された社会や労働観を超え、流動的で創造的な生き方を目指すことを提唱したこの『千のプラトー』に出てくる「リゾーム的思考」は、ピラミッド型の権力・労働構造に縛られず、ネットワーク状につながる自由な働きかた・生き方を意味しています。AI時代には、「仕事」や「アイデンティティ」が固定されず、複数のつながりの中で変化していく生き方が主流になる可能性があります。「中央集権的な組織や労働が崩れる時代」に「人間の在り方」を考える上で、この『千のプラトー』の思想は、重要なヒントを与えてくれます。
7. バーナード・スティグレール『技術と時間(原題:La Technique et le temps)』(1994-2001年)
■本と著者について
フランスの哲学者であり元犯罪者(若い頃に銀行強盗で服役。その際に哲学を独学したそうですw)、バーナード・スティグレールが、「技術は知性を進化させるか、それとも退化させるか?」という重要な問いを追求した、全三巻に及ぶ大著です。
スティグレールは、このシリーズで、人間の思考や文化、社会は技術によって形成されるが、その進化が人間の知性に「予期しない変化」をもたらしている、と警告しています。彼は「技術は人間の本質的な一部である」というテクノロジー論を持ち、テクノロジーの進化が人間の思考・記憶・文化に与える影響を批判的に分析しました。その上でデジタル時代における「知性の変容」や「自動化による精神の貧困化」に、警鐘を鳴らしているのです。
スティグレールは、「人間の記憶はテクノロジーと共に発展する」という視点に基づき、デジタル時代の影響を以下のように(批判的に)分析しています。
- 「エピメテウス的な技術」(人間は技術なしでは存在できない)
スティグレールは、ギリシャ神話のエピメテウス(後知恵の神)を引用し、「人間は生まれつき何の能力も持たず、技術によって補完される存在」と述べています。道具や記憶装置(書物・映画・デジタルメディア)を通じて、知性や文化を発展させてきたという視点です。 - 「記憶の産業化」
産業革命以降、人間の記憶は個人の内側から、技術(印刷・映画・テレビ・インターネット)によって外部化されるようになりました。デジタル化が進むことで、ますます外部化(クラウドやAIに依存)するようになり、自己の内面的な思考が減少しています。 - 「プロレタリア化」(思考の自動化による知性劣化)
彼は、情報社会において、知識は広がる一方で、人間の思考は受動的になり、自分で考える力が衰退すると警告しています。確かに、スマートフォンや検索エンジンに頼りすぎることで、「自分で考える力」は低下しています。何かを覚えなくてもGoogleが教えてくれますが、これは、記憶の自動化による知的怠慢です。彼は、人間の知性が「消費するだけのもの」に変質し、創造的な思考が衰える、という問題を提起しています。
スティグレールは、AI時代において「人間の知性」がどのように変化し、どうあるべきかを深く考察しています。
- 「知性のオートメーション化」とその危険性
AIが多くの仕事や思考プロセスを代替することで、知的活動そのものが「外部化(自動化)」されます。その結果、人間はますます「考えなくなる」(知性が機械に依存しすぎる)ことで、劣化する可能性があります。 - 「集合的知性」と「個人の知性」の関係
スティグレールは、「テクノロジーが知識を共有する能力を高める」という面では肯定的な評価をしていますが、「それが個人の知性を奪う場合は問題だ」と指摘しています。WikipediaやAIチャットのような「知のプラットフォーム」は、知識を広げる可能性を持ちますが、それを受け身で使うだけでは知性は発展しません。「集合知」を活用しつつ、個人が主体的に考えることが重要だと説いています。 - 「新しい教育の必要性」
AI時代には、単に知識を詰め込む教育ではなく、「知識をどう活用し、創造的な思考をするか」が求められます。そのためには「批判的思考」や「創造性」を鍛える教育が不可欠となります。 - 「テクノロジーとの協働」をどうするか?
AIが進化する中では、人間の知性をどう活かすか、が鍵になります。スティグレールは、「技術を単なる消費のツールではなく、知性を拡張するための道具として使うべき」だと主張しています。
■AI時代におけるスティグレールの示唆
まず、我々は「記憶のオートメーション化」の危険性を強く認識する必要があるでしょう。AIやデジタル技術に頼りすぎると、人間の記憶力・思考力は確実に低下します。AIを活用しつつ、自分で考え、記憶を鍛える。この習慣こそが重要になってくることがわかりました。
また、AIによって知識が民主化される一方で、受け身で情報を消費するだけでは、人間の知性は衰退していきます。創造的な知的活動(哲学・芸術・問題解決)を意識的に行うことが必要です。我々はこのことに気付くべきタイミングに来ているはずです。
そして、AIを「人間の知性を奪うもの」ではなく、「人間の知性を拡張するもの」として使う。このスタンスを徹底していかなければなりません。AIが情報を整理する一方で、人間はそれをどう活かすかを考え続けるのです。
また、教育の重要性とその変化の必要性についての認識を深めなければなりません。以前、こちらのブログ(参照リンク)で、フィンランド式教育の取り組みについて(読解力の文脈で)取り上げましたが、フィンランドの学校には「人生哲学の知識(Elämänkatsomustieto)」という選択科目があります。その科目では、自分自身の道徳を持ち同調圧力にゆるがないこと、自分らしく生きること、人との対話、良い人生、人権、批判的思考、民主主義、政治への参加などが、テーマとして繰り返し現れるそうです(*)。AI時代に求められる教育は、単なる知識の暗記だけではなく、正にこのようなカリキュラムではないでしょうか。単なる情報処理能力ではなく、「何を考えるか」「どう価値を生み出すか」といった「問いを立てる能力」を醸成する教育。思考力、創造&創造力、倫理的判断力を鍛える教育に舵を切る必要性が、急速に高まっているものと考えます。
*出展:岩竹美加子著「フィンランドの高校生が学んでいる人生を変える教養」
既に始まっている「未来」をどう歩むか
今回は、四冊の比較的新しい哲学書を通じて、AI時代における「人間の在り方」を考察してみました。
- ハラリ:AIは人間の自由意志を脅かす。人間は「ホモ・デウス」の時代へ移行する可能性があるが神に近づけない層は「無用者階級」化し、富の格差が拡大する可能性がある。
- サルトル:人間は世界に投企された存在であり、自分の生き方は自分で決めなければならない。AI時代でも、人間は自らの行動によってのみ実存主義的な意味を創造することができる。
- ドゥルーズ&ガタリ:AI時代には「仕事」や「アイデンティティ」は固定化されず、複数のつながりの中で変化していく「リゾーム的」な働き方・生き方へシフトして行く。
- スティグレール:AIへの依存により人間の思考は受動的になり、知性は劣化して行く。批判的思考や創造性を鍛える教育が必要であり、それが思考の主体性を維持につながる。
鈴廣かまぼこ鈴木社長の危惧(前回ブログ参照)は全くもって正しく、AIの進化に対して人間が受動的な態度は、悲劇的な結末を招きかねないことがわかりました。
前回も書いた通り、人口減少が加速する日本において、AIの活用が必須の手段となることは確かです。しかしAIが急速に進化・発展する今こそ、単に技術の進歩に熱狂し、受け入れるだけではなく、同時にその影響を批判的に捉え、人間はどのように生きるべきなのか?を問い続けなければならないのです。さもなければ人間は急速に劣化して行き、無用者階級として社会から排除され、極端な貧困に陥ってしまう可能性があるのです。
このような「悲劇的な結末」を避けるためには、何よりもまず「主体的に生きること」、そして「AIに使われるのではなく、AIを使う」意識を持ち続けることが重要です。最新の技術を活用しながら、人間の価値を再定義し、未来を創造する主体としてひとりひとりが深く考え、行動して行く。これこそが、今我々が取るべき唯一の道でしょう。
AI時代は未来のSF話などではないのです。それは、既に始まってしまっているのですから。
哲学的視点からAI時代の「人間の在り方」を考えることは、極めて重要な試みとなりました。技術は人間を進化させるのか、それとも人間を支配するのか?これからの社会を見据えながら、深く「自分の在り方」を考え続け、行動して行く所存です。
BBDF 藤本